一番かわいい瞬間に、写真を撮らないで、ぼくとあそんでと猫が鳴く。

このクソ寒い時期にブラックフォーマルで集まれとか相変わらず空気読めてないしそのうえいつもインド時間で暮らしてさんざん人を待たせたくせになんでこんな時だけひとりでさっさといっちゃうんだよ馬鹿。

怒りの声と、他人を責める言葉は、違うんだよ。本当に怒っている人ははたしてどれだけいるのだろうか。

流れ星降る空よりもながめていたいものは君の寝顔。

あいたいというのは、ほかのだれにもめをむけないでわたしだけをみているじかんをちょうだいということ。だからかんたんにくちにだしてはいけないこと。わかっているのにとめられない。

ある問題が「それが自分の身に起こったらどうなるか」を想像することで、その問題を考えたつもりになるのは、他者の痛みを感じることができない、徹底して鈍感な人間でしかない。

会いたいと思う気持ちを口にして、会いたいと言われても、会いたいと言わせた気がして、さびしくなる。

何を言っても何を書いてもかまってほしい電波ゆんゆんでどうしていいかわからないよ……

楽しい時間を終わらせるのが苦手だ。とても楽しかったはずなのに、またねって言った瞬間、さびしくて悲しくて死にたくなる。

お隣のあまのゆかさんへ

大きな試練に立ち向かおうとするあなたの力強い言葉に、いつも勇気づけられています。行ってらっしゃい。そして、どうか、元気で帰ってきてください。

終わりの始まりの日の朝だから、心が穏やかに涙を流している。

忙しいという字は心を亡くすと書きます。そう感じる心がようやく私のところに戻ってきたようです。

人は他人の言葉を理解したいようにしか理解しない。

距離とは、起こりえる事象の可能性の量を表す指標である。遠ければ遠いほど、「いま、そこで起こっていること」の幅は広がっていく。

朝が来るたびに少しずつ失う希望と引き換えに、人は日々想いを紡ぐことができる。

忘れること と 封じること の 区別をつけるのは難しい。 忘れられる人になりたい。

謝る言葉はごめんなさい。感謝する言葉はありがとう。でも、赦す言葉って、うまくみつからない。もどかしい。

私が地上から見あげる空の曇って、宇宙から見る雲の裏側なんだなー。逆に、気象衛星が撮影する雲の写真って、私が見ている雲を裏側から撮影してるんだ。どちらから見ても裏返し。

「一度経験してみればどれだけ辛いかあなたにも分かりますよ」って言葉をかける人が、本気で理解できません。辛い思いをしたくないから足掻いているのに。

笑顔は誰に見せるかでまったく違った表情になるけど、それは全部私の本当の顔。だから、笑顔の写真を撮って欲しいと頼める人に出会えたことは、とても幸せ。

文章をかくってことは、恥をかくってことですよ。

やさしい嘘は、常に残酷。

君が月を見に行くって言ったから、僕は夜の街を走った。かじかんだ手でシャッターを切って、震えながら君にメールした。僕の見ている月を、君に見て欲しかったから。たとえ手が届かなくても。

忘れようとする努力は記憶を刻む行為になる。思い出とワインは飲み頃までそっと寝かせておくのがいい。

行き場のない恋なんて、もうできないんだと思い知らされた。淋しい。会いたい。キスしたい。ぎゅっと抱きしめられて、そしてさよなら、私の心は石になる。

ファイルの上書き消去って本当は消えてなくて、断片はディスクの中に散らばっている。思い出の消去も同じ。記憶のクリーンインストールは自分の力では難しい。

幾千幾万年の時を経た光が瞬く中、刹那に燃え落ちる星に、人は儚い夢を託す。

きれいな雲の写真をメールした。同じ雲の写真がメールできた。違う風景。でも確かに私達は、同じ空の下にいる。

流星は平日でも昼間でも、関係なく地上に降り注いでいる。願いを掛けたい人間の都合なんて、星空の知ったことじゃない。

つないだ 握った 「おやすみなさいまた明日」 放した 秋風 手のひらが熱い。